コラム 2019.02.07

連載・武藤芳照の面白ゼミナール 第1回「歴史的な誤訳」

連載・武藤芳照の面白ゼミナール

学校の体育的行事や各地のスポーツ大会の折などに、校長先生や大会主催者などがしきりに用いていた格言に、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」がある。

これは、「健全な精神は健全な身体に宿るのであり、不健全な身体に宿らない。したがって、身体を健全にすることが大切であり、運動・スポーツを行い、身体を鍛えることが必要だ」という趣旨で用いられることが多い。いわば、体育・スポーツ礼賛の標語であり、運動器の立場からは、是非とも活用しなければならない言葉のようにも思える。

しかし、よく考えてみると、奇妙なことに気づく。「健全な精神は不健全な身体には宿らない」というのであれば、生まれつき身体に障害があったり、成長・発達の途上や大人になってから病気・ケガなどにより身体障害をきたした人には、健全な精神は宿らないということになる。

それでは、パラリンピックの選手をはじめとする身体障害のある人は、健全な精神の持ち主ではないとでも言うのであろうか。誠にひどい解釈であり、現実の社会と明らかに乖離した言葉だ。

実は、これは歴史的な誤訳と考えられる。この格言の出典は、古代ローマの風刺詩人デキムス・ユベナーリスの風刺詩だ。

ラテン語の原文は「Orandum est, ut sit mens sana in corpore sano」で、「だからもし、祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきであろう」という意味だ。

それを、近世イギリスの哲学者ジョン・ロックが『教育論』(1693年)を著した時の冒頭に、「A sound mind in a sound body」と英訳で引用した。その際に、「Orandum est, ut sit・・・」(あれかしと祈るべし)の部分が除かれてしまったようだ。その英文が明治初期の欧米文物を急速に移入した時に、日本語に翻訳され、「宿る」という形で広まったと推察される。

つまり、健全な精神と健全な身体の両方を持つことが理想だが、その一致がなかなかむつかしい。体は丈夫だが心が貧しい人もいれば、体に障害はあるが、心は豊でたくましい人も数多くいる。両者が共に健全であるように希望するということが、本来の解釈だ。したがって、この格言は、正しくは「健全な精神が健全な身体に宿らんことを」と和訳されるべきだ。

運動器の健康・日本協会として、体育・スポーツに留まらず、音楽・演劇・絵画・書道などを含め、幅広い分野・領域で、「動く喜び 動く幸せ」を体現する上で、この格言が正確に伝えられることが大切と思う。

【参考・引用図書】
1.水野 忠文 : 『改訂体育史序説』,世界書院,東京,1982
2.武藤 芳照 : 『よみがえれ風の子、子どもの体の育み方』,中央公論新社,東京,2002

●プロフィール
武藤芳照(むとうよしてる)
東京大学名誉教授
昭和25(1950)年愛知県大府市生まれ。愛知県立刈谷高校卒業。昭和50(1975)年名古屋大学医学部卒業後、東京厚生年金病院整形外科医長を経て、昭和56(1981)年より東京大学教育学部助教授、平成5(1993)年同教授、平成7(1995)年同大学院教授、平成20(2008)年同大学院教育学研究科副研究科長、平成21(2009)年4月より同研究科長・学部長。平成23(2011)年4月より東京大学理事・副学長・東京大学政策ビジョン研究センター教授。平成25(2013)年4月より日体大総合研究所所長、平成26年(2014年)4月 日本体育大学保健医療学部教授を経て平成28(2016)年4月より日本体育大学特別招聘教授。平成30年(2018年)4月より現職。東京大学名誉教授。

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